4/28(土)晴れ
メンバー…18名 見学…なし
ゆみです。五月を目前に、練習にはベストな気候になってきました。
さわやかな皆さんの姿とは裏腹に、今日は今取り組んでいる魔獣の踊りの振付について書こうと思います。
大変申し訳ありませんが、今回は練習の様子やポイントなどは以下一切出てこないので、お忙しい方は読み飛ばしてくださいませ。ここ2~3日の私の考えていることを自分の気持ちの整理のために書きます。一人ブログのようになってしまいます。
しかも下手クソな踊りしかできないのに大きなことを考えて、それもお恥ずかしい限りですがお赦しください。
この日予定されていた勇者の曲の発表に先立ち、浜田さんから魔獣の踊りのソロの振付を考えておくように言われていました。私にとってはもしかして一生に一度かもしれないほどの難しくかつ魅力的な大役です。
最初に浜田さんから与えられたキーワードは、「邪悪」、「力」、「嘲笑」、「狂気」でした。私はまず、憧れの「ブラックスワン」(チャイコフスキー・バレエの「白鳥の湖」の悪役である黒鳥の舞)を連想しました。
そして以前ドラクエの「邪教」についてちょっと書きましたが、その「キリスト教一般」の世界観から見た「異教徒」の踊りにしようと考え、インド風ブラックスワン的な振付を作っていきました。今まで経験してきた踊りの要素とイメージをすべて駆使しました。
でも浜田さんの答えは、「No」でした。
はじめ具体的な指摘を頂かなかったので、作った振りの方向性が違うのか、音楽と合っていないのか、私の踊り方が下手なのか、ダンサーとしての私がダメなのか・・・どこがどう違うのかわからず、私自身を全否定されたように感じてしまい、練習中にもかかわらず辛くて泣いてしまいました。(蝶子が励ましてくれて、ぐっちーがパンをくれました。ありがとう。)
浜田さんは後でこう説明してくれました。
「それでは悪魔の遣いの踊り子だ。その上に君臨する絶対的な統治者でなければならない。見る人を魅了するのではなく心底恐怖させるような魔王を表現してくれ。」
でもそれを聞いたとき、私には何のイメージも材料も方法論も浮かびませんでした。
これまで培ってきたと思っていた自分の経験も何の役にもたちません。途方に暮れました。時間の猶予もありません。
翌日は丸一日、ほとんど抜け殻のように放浪しながら、「絶対的な悪」とは何かを考えました。
殺戮を快楽ともする純粋な悪そのもの―。
悲しみの裏返しなどではない根本からの冷酷さ―。
人間の弱さや卑しさを見透かすような嘲り―。
単なる野蛮ではなく高い知性をもち統治する力―。
魔境と同化し、うっかりすると悪魔に魂を売り渡してでも、それを知る必要がありました。
そうしてなんとか出来たのが新しい魔獣の振付です。
でも踊り込みはこれからなのでまだまだ完成ではありません。
創作という行為は身を削るとよくいいますが、全く新しいものを生み出すには今までの自分自身をすべて放棄することが必要になります。これはとても辛く孤独な作業で、長い時間がかかります。
人はだれでも「私とはこういう人間です」とか「これこれを一生懸命やってきました」とか「私の立場は・・・」といったような、日頃これが自分自身であると思い込んでいる精神的・社会的な「壁」みたいなものを持っています。「殻」と言ってもいいかもしれませんが、もっと強固なものです。
そして、いわばそれら「幻想」によってその人の日常世界/人生が展開されていくのですが、とくに表現者や創作者が新しい挑戦をするとき、そのような「壁」をすべて取っ払う必要があるのではないかと思うのです。
そういった自分を護るものを全て手放して開放することによって、未知のインスピレーションを得られる可能性があるのですが、そのとき同時に、周囲からの様々な刺激を過敏に受けてしまったり、自分の心に閉じ込めていたいろいろな葛藤や未熟さが露呈されたりもします。
(ドラクエゲームでいうと「捨て身」コマンドです。攻撃力[ここでは創造力]が上がるぶん、守備力が下がりますね。)
ところで、映画「ブラックスワン」は見たことありますか?
(かなりネタバレするので、映画を楽しみにしている方はここから先は読まないでください。)
黒鳥役を得た主人公のダンサーは、自分の苦手とする強く魅惑的な踊りを表現するのに苦しむのですが、そこへライバルのダンサーがいろいろな方法で足を引っ張って彼女を陥れようとしてきます。
実は、それはプレッシャーから彼女自身の心によって作り出された幻覚なのですが、その不安と恐怖の中、彼女は自らの幻覚に追い詰められ、最後には自分自身を刺して命を落としてしまいます。
この映画の最大のメッセージの一つは、最後にセリフにもでてくる、
「自分を阻害するものは、他者ではなく自分自身なのだ」
ということではないかと、私は思いました。
私も今、自分が勝手に想定した見えない敵と戦い疲弊し、ある部分で自滅しています。
相手は物理的には全く攻めてこないのに、常に心の隙間に入り込んできて、私をこの社会・この世界から疎外しようとします。誰の目にも見えなくても、私の前には最もリアリティを持って確かに存在するのです。
だけど本当は、他者が刺しているのではなくて、自分自身で刺しているのです。
その虚しい戦いをやめるには、それが幻想であることに真に気づかなくてはなりません。
それぞれの人の心の中に、その人にとっての悪があります。
それは人の心にある弱さや卑しさや傲りが生み出したものではないかと私は思っています。つまり、悪の根源は自分自身なのです。
「絶対的な悪」と見えるものも、突き詰めれば相対でしかありません。自然界にはただ野生の秩序があるのみです。
ロマではいつも、作品を通していろいろなことを考える機会をもらっています。
深刻になる必要はもちろんないですが、全力で考え自己の限界にチャレンジすることは、音楽であれ舞踊であれ表現のプロセスにおける醍醐味の一つではないかと思っています。
日々の練習には、私もフェイスの向きだの拍割だのポイントだの地道な確認の繰り返しですけれども、自分なりの課題を乗り越えていくことでお客さんに伝わることがきっとあると信じています。それは何より自分自身の財産になります。社会人になっても仕事や生活に追われるだけでなく、こういうことで悩めるというのはとても幸せなことでもあります。
時間的・体力的にキツイ時期が続き純粋に楽しむということも出来にくくなってきますが、何のためにこんなに労力を費やしてやっているのかということにちょっと目を向けてみると、辛さもまた別のものに変わるかもしれません。
「中高年の星」になれるよう、あと3週間がんばりましょう。 (ゆみ)
メンバー…18名 見学…なし
ゆみです。五月を目前に、練習にはベストな気候になってきました。
さわやかな皆さんの姿とは裏腹に、今日は今取り組んでいる魔獣の踊りの振付について書こうと思います。
大変申し訳ありませんが、今回は練習の様子やポイントなどは以下一切出てこないので、お忙しい方は読み飛ばしてくださいませ。ここ2~3日の私の考えていることを自分の気持ちの整理のために書きます。一人ブログのようになってしまいます。
しかも下手クソな踊りしかできないのに大きなことを考えて、それもお恥ずかしい限りですがお赦しください。
この日予定されていた勇者の曲の発表に先立ち、浜田さんから魔獣の踊りのソロの振付を考えておくように言われていました。私にとってはもしかして一生に一度かもしれないほどの難しくかつ魅力的な大役です。
最初に浜田さんから与えられたキーワードは、「邪悪」、「力」、「嘲笑」、「狂気」でした。私はまず、憧れの「ブラックスワン」(チャイコフスキー・バレエの「白鳥の湖」の悪役である黒鳥の舞)を連想しました。
そして以前ドラクエの「邪教」についてちょっと書きましたが、その「キリスト教一般」の世界観から見た「異教徒」の踊りにしようと考え、インド風ブラックスワン的な振付を作っていきました。今まで経験してきた踊りの要素とイメージをすべて駆使しました。
でも浜田さんの答えは、「No」でした。
はじめ具体的な指摘を頂かなかったので、作った振りの方向性が違うのか、音楽と合っていないのか、私の踊り方が下手なのか、ダンサーとしての私がダメなのか・・・どこがどう違うのかわからず、私自身を全否定されたように感じてしまい、練習中にもかかわらず辛くて泣いてしまいました。(蝶子が励ましてくれて、ぐっちーがパンをくれました。ありがとう。)
浜田さんは後でこう説明してくれました。
「それでは悪魔の遣いの踊り子だ。その上に君臨する絶対的な統治者でなければならない。見る人を魅了するのではなく心底恐怖させるような魔王を表現してくれ。」
でもそれを聞いたとき、私には何のイメージも材料も方法論も浮かびませんでした。
これまで培ってきたと思っていた自分の経験も何の役にもたちません。途方に暮れました。時間の猶予もありません。
翌日は丸一日、ほとんど抜け殻のように放浪しながら、「絶対的な悪」とは何かを考えました。
殺戮を快楽ともする純粋な悪そのもの―。
悲しみの裏返しなどではない根本からの冷酷さ―。
人間の弱さや卑しさを見透かすような嘲り―。
単なる野蛮ではなく高い知性をもち統治する力―。
魔境と同化し、うっかりすると悪魔に魂を売り渡してでも、それを知る必要がありました。
そうしてなんとか出来たのが新しい魔獣の振付です。
でも踊り込みはこれからなのでまだまだ完成ではありません。
創作という行為は身を削るとよくいいますが、全く新しいものを生み出すには今までの自分自身をすべて放棄することが必要になります。これはとても辛く孤独な作業で、長い時間がかかります。
人はだれでも「私とはこういう人間です」とか「これこれを一生懸命やってきました」とか「私の立場は・・・」といったような、日頃これが自分自身であると思い込んでいる精神的・社会的な「壁」みたいなものを持っています。「殻」と言ってもいいかもしれませんが、もっと強固なものです。
そして、いわばそれら「幻想」によってその人の日常世界/人生が展開されていくのですが、とくに表現者や創作者が新しい挑戦をするとき、そのような「壁」をすべて取っ払う必要があるのではないかと思うのです。
そういった自分を護るものを全て手放して開放することによって、未知のインスピレーションを得られる可能性があるのですが、そのとき同時に、周囲からの様々な刺激を過敏に受けてしまったり、自分の心に閉じ込めていたいろいろな葛藤や未熟さが露呈されたりもします。
(ドラクエゲームでいうと「捨て身」コマンドです。攻撃力[ここでは創造力]が上がるぶん、守備力が下がりますね。)
ところで、映画「ブラックスワン」は見たことありますか?
(かなりネタバレするので、映画を楽しみにしている方はここから先は読まないでください。)
黒鳥役を得た主人公のダンサーは、自分の苦手とする強く魅惑的な踊りを表現するのに苦しむのですが、そこへライバルのダンサーがいろいろな方法で足を引っ張って彼女を陥れようとしてきます。
実は、それはプレッシャーから彼女自身の心によって作り出された幻覚なのですが、その不安と恐怖の中、彼女は自らの幻覚に追い詰められ、最後には自分自身を刺して命を落としてしまいます。
この映画の最大のメッセージの一つは、最後にセリフにもでてくる、
「自分を阻害するものは、他者ではなく自分自身なのだ」
ということではないかと、私は思いました。
私も今、自分が勝手に想定した見えない敵と戦い疲弊し、ある部分で自滅しています。
相手は物理的には全く攻めてこないのに、常に心の隙間に入り込んできて、私をこの社会・この世界から疎外しようとします。誰の目にも見えなくても、私の前には最もリアリティを持って確かに存在するのです。
だけど本当は、他者が刺しているのではなくて、自分自身で刺しているのです。
その虚しい戦いをやめるには、それが幻想であることに真に気づかなくてはなりません。
それぞれの人の心の中に、その人にとっての悪があります。
それは人の心にある弱さや卑しさや傲りが生み出したものではないかと私は思っています。つまり、悪の根源は自分自身なのです。
「絶対的な悪」と見えるものも、突き詰めれば相対でしかありません。自然界にはただ野生の秩序があるのみです。
ロマではいつも、作品を通していろいろなことを考える機会をもらっています。
深刻になる必要はもちろんないですが、全力で考え自己の限界にチャレンジすることは、音楽であれ舞踊であれ表現のプロセスにおける醍醐味の一つではないかと思っています。
日々の練習には、私もフェイスの向きだの拍割だのポイントだの地道な確認の繰り返しですけれども、自分なりの課題を乗り越えていくことでお客さんに伝わることがきっとあると信じています。それは何より自分自身の財産になります。社会人になっても仕事や生活に追われるだけでなく、こういうことで悩めるというのはとても幸せなことでもあります。
時間的・体力的にキツイ時期が続き純粋に楽しむということも出来にくくなってきますが、何のためにこんなに労力を費やしてやっているのかということにちょっと目を向けてみると、辛さもまた別のものに変わるかもしれません。
「中高年の星」になれるよう、あと3週間がんばりましょう。 (ゆみ)