7/29(日)晴れ
メンバー…10名 見学…1名(Fl)



こんにちは、ゆみです。久しぶりの練習でしたね。
今年の年明けは激寒の体育館練習を免れることができたので、夏もあわよくば激暑体育館に遭遇しないで済むかもしれないと踏んでいましたが、甘かった。。。

蒸し風呂とはいわないまでも、体温より高い温度で保温された体育館で、今年もロマの夏が始まりました。チーン。

フルートの見学者さんムック(またの名を「社長」!)も来てくれたので、午前中はみっちり動きの基礎練をやって、校長先生の話の間に座り込む生徒やめまいを起こす生徒が続出でしたが、改めてロマ式の歩き方を機能的に理解することができました。
美しさの追求とともに、その根拠が明確になっていることがとてもすばらしいですね。


午後は基礎合奏のあと、9月本番の候補曲の試奏をしました。
っていうか、私はほとんど聴いてるだけでしたが^^;

『スーパーマリオブラザーズ』
『会いたかった』
『TOKYO LOVE』
『アンパンマン・メドレー』
『蒼吼』
『ADUH SAYANG!』
『銀座カンカン娘』
『At dusk』
『家族になろうよ』
『永遠にともに』
『Chapel of Love』

盛りだくさんですね!懐かしい曲も初めて聞いた曲もありました。
ときどき大太鼓を叩かせてもらったりして皆さんのお邪魔をしましたが、とっても楽しかったです。
この本番を期にロマを卒業するにあたって、一回一回の練習がより感慨深いものになっているということもありますが、ここにきてやっとみんなで一緒に一つの音楽を作っていくことの楽しさというのを、少しずつ実感できるようになりました。

新曲2曲のうち、『IMMIGRANT SONG』の試奏もちょっとやりました。
毎回のことですが、どっからこんな曲見つけてくるんだか・・・という、トンコリンに次ぐインパクトです。
まあ選ぶ方も選ぶ方なら、こんな難しい譜面作る人も作る人で、それ見てすぐに吹いちゃう人たちも人たちで・・・
ロマってある意味ですごいんじゃない?と思ってしまいました。
いつも膨大な作業を請け負ってくださっている浜田さん・広瀬さん、本当にありがとうございます。

ガードの方は現時点でサッパリNo ideaなので、もうしばらくお待ちを。
今はもう曲の理解が何がなんだか・・・「嵐とV6の区別が全然わかんないおばちゃん」状態です。。。
でも今度こそ猫を打ち上げましょう☆



話変わりますが、翌月曜は、9/1本番の児童養護施設の下見に同行させて頂きました。
これがたぶん最後の「制作」のお仕事です。
今までもこういった下見を通じていろいろな勉強をさせてもらっていたので、ちょっとさびしいです。

施設は、世田谷の住宅街の中にあるきれいな建物でした。現在は2才~18才の子がいて、子どもたちの多くは区内各所のグループホームに分かれて居住していて、その施設は主にそれを統括する場所とのことです。
年に数回行われる児童集会の中で、今回ロマの演奏の場を用意してくださることになります。

着くとすぐに園長先生や職員さんたちがあたたかく迎えてくださり、ゆっくりと話を伺うことができました。
「ふつう」であれば、とくに考えなくても自然と存在して流れていってしまう「日常」という時間、そして「家庭」という場所をいかに「自然」な形で創り出していくか。その苦労と難しさについてお話してくださいました。
子どもたちには適応していく力がありますから、大人の思索を超えてたくましく生きていく子もたくさんいます。でも心の傷や不安は、ずっと抱えていかなければなりません。

ロマの関わりの中で、いつもいろいろなことを考えさせられますが、今回もまた話を聞いている間から頭が痛くなってきてしまいました。
「あたりまえ」のことが「あたりまえ」ではない生活。そこに生きる子どもたち。
たった一回の演奏訪問の中で、私たちは何を持っていけるのでしょう。


私の好きな言葉に、「世界の平和は家庭から」というマザーテレサの言葉があります。これは、いかに家庭における平和が困難であるかを意味してもいます。
家庭とは愛を育む基盤ですが、実際には家庭こそがもっとも悲劇を生む場所にもなりえます。とくに幼少期の心の傷は、大人になってからも手枷足枷のように人生を歩む力を著しく失わせます。育児放棄、虐待の連鎖、家庭内暴力・殺人、子どもの自殺・・・・増え続けていますね。
両親が揃っていれば幸せとも限りません。家族がいても、親子・兄弟がお互いの考えや本当に好きなこと・嫌いなこと、大切に思っていることをどれだけ知って、どれだけ大事にしようとしているでしょうか。
そういう意味で、現代日本の「家族」はすでに形骸化しています。
それなのに(それだからこそ?)「家族」や「家族の絆」といった言葉・概念だけが神聖視され一人歩きしていくということが進んでいる、と私は思っています。

子どもは、自分へ向けられる親の意識の集中だけで生きている存在です。
ただ栄養を与えていさえすれば大きくなるのではない、人間の子だけは、人間として言葉をかけ触れてあげなければ「人間」にはならないのです。

でもいろいろな事情でその場が得られなかった子がいる。そしてその場の「代わり」を社会の中で作ってくれているのが児童養護施設なのです。
園長先生は言っていました。
「お金を余分に頂くよりも、余裕の出来た時間でこの子たちと関わる時間を持とうと思ってくださることの方がはるかに嬉しい」と。

お互いにとってよい出会いとなるように、あと一か月がんばりましょう。 (ゆみ)